5 バケツ稲による「田んぼの学校」
5-1 バケツ稲の生育
都市部で「田んぼの学校」を実施しようとしても、学校の近くに水田が無くバケツを用いた稲作が行われる場合が多い。JAなどのホームページに「バケツ稲栽培マニュアル」が掲載されているのを見受けるが、そのほとんどは、農家が水田で行っている農作業カレンダーをそのままバケツに再現するものである。日当たりや風通しが良い理想的な環境にあるバケツ稲の生育は、水田のものとは全く違っている。
「田んぼの学校」は農業体験ではないというのが私の考えである。バケツの中の稲がその能力を完全に発揮するような生育をさせるには、水田における行程とはおのずと違ってくる。先ず、代掻きは不必要であり、酸欠状態になりむしろ有害である。中干しは水田における過繁茂を抑えるためのものであるが、これもバケツ稲の生育には不必要である。一般には、稲の栽培技術は難しいものと受け止められがちであるが、水田という大きな圃場を管理する難しさであって、バケツの1株には当てはまらない。 稲の生育は土の力に左右され、土に力があればあるほど稲は根を張り養分を吸収し穂を実らせる。また、日当たりが良く風通しも良い最高の環境にあり、稲はその力を充分発揮する。良い土をたくさん使い、水を常にたっぷり与える。このだけがバケツ稲の栽培技術である。水田の稲が1株20本程度の穂しか実らせることができないのに対して、バケツ稲が200本から300本の穂を実らせることは、決して珍しいことではない。詳細は、6章に述べることにする。
5-2 蒲生町立蒲生西小学校のバケツ稲栽培
蒲生町立蒲生西小学校で5年生がバケツ稲に取り組むことになった。私が応援することとなったのだが、担任団ではやはり栽培技術の不足を心配しておられた。担任団との打ち合わせで決まったことは、「農業体験とはしない。」ただそれだけである。具体的には、①土は保護者にお願いして水田の土を持ち寄っていただく、②水田のように中干しは行わず稲に生育をまかせる、ことになった。水田の土を用いるのは「田んぼの学校」に近づくであろう要素を作っておきたかったからであり、土の中にいる微生物や昆虫の卵、植物の種子が何らかの働きをすることを期待していた。 担任団の年度当初の計画では、「田んぼの学校」は農業体験に近いものであったようである(図5-2-1)。教科書では農業を食糧問題として扱い、環境問題としては捉えていないから仕方ないことかもしれない。この取り組み通して、担任団は稲の力の偉大さに気付くことになる。
田植えを行ってから、バケツの中の水に変化が起こった。水が緑色や茶色に濁ったり、その後、藻類や浮き草・雑草・小さな虫がどんどん姿を現した。子どもたちは、最初理由が分からず水を捨てたりしていた。水の濁りの正体が微生物やミジンコなどの小動物であり、自然のありのままの姿であると理解すると、稲の生育とバケツの中の小自然とを合わせて見るように変化していった。子どもたちの観察日誌の稲のスケッチを見せていただくと、最初は稲しか描かれていなかったものが、水の中など稲の周りを描くように変化していく様子が分かる。
私は生育実験をバケツを用いて行ったが、培土に不耕起水田の表土を用いたため、水の中には不耕起水田で見られる生き物がおびただしく繁殖をした(図5-2-2)。蒲生小学校では一般水田の土を用いたので、これほどではなかったのが残念である。子どもたちは、お互いのバケツの中の藻類や浮き草などを交換し合って、繁茂するする様子を楽しんでいたようである。 バケツの中では、不耕起水田ほどのダイナミックさは味わえない。体感のレベルまで高まらなくて残念であったが、バケツ稲にも良さはある。常に身近において観察できること、夏休みも自宅で出穂し実ってゆく生命誕生のシーンを目の当たりにできることである。北里小学校での「田んぼの学校」との違いは、その後の収穫作業の動機付けにある。出穂の瞬間と稲の花を見た子どもたちは、大きな期待を持って収穫を待ちわびていた。水を絶やして稲を枯らせてしまった児童も、10粒しか取れなかった籾を大事に扱っていた姿はとても印象的であった。バケツという小さな生命のつながりだが、子どもたちの心には新鮮に染み入ったのではないだろうか。
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